この旅行記は、2015年までに私たち夫婦が隔年八重山へ旅行した時の内容を数回の記事に編集したものです。
南の島旅行記番外編 下
ほぼ隔年で年末は、石垣島へ長期旅行に出かけていた私たち夫婦ですが、振り返って見ると沖縄本島は、あまり足を運んでいません。
番外編の最後は、あまり足を運んでいない中でも、特に印象深かった首里城を案内したいと思います。
首里城は、皆さんのご記憶にもあると思いますが、2019年10月末に火災に遭い、正殿、北殿、南殿・番所、書院・鎖之間、黄金御殿、二階御殿、奉神門が残念ながら全焼しました。
出火原因は、結局わからずじまいで謎のままです。
我が家でも、昨年末に子どもを連れて首里城へ行こうかと計画を立て始めていた矢先のことだったので、本当に残念な思いでいっぱいでした。
そのような思いのある首里城ですが、焼失する前のすばらしい姿をこのブログで多くの方にご覧いただければと思い、今回記事にしました。
首里城見学前夜、三線の大先生紹介の三線ショップに行く
前回の久高島へ行った後、夕方に那覇まで戻りました。
今回、沖縄に2泊した目的は、久高島散策と首里城見学に加えて、いつもお世話になっている三線屋さんに立ち寄るためです。
実は、三カ月前に妻の三線の胴表の皮が破損してしまったんです。
写真の通り、見事にバリバリです。(悲;)
三線は、胴に蛇皮を使っているのですが、乾燥した状態でほっておくと、写真のように皮が破れてしまうことがあります。
通常は、1か月に1度くらい油を塗ると破れないのですが、妻はこのところ仕事が忙しかったので、半年ちょっとハードケースに入れっぱなしにしておいたために破れてしまったようです。
沖縄三味線は、鹿児島県の奄美諸島から南の地域に見られる楽器です。
音階が独特で、レとラの音を使いません。
琉球音階と呼ばれるこの音階で奏でられる曲は、開放的で明るい感じがする独特の曲調です。
また、三味線と言えば、津軽三味線が有名ですよね。
この津軽三味線が奏でる津軽じょんがら節も大好きなんですが、沖縄三味線は、津軽三味線のように楽器の演奏のみを聴かせるというものではありません。
三線で奏でられる曲は、必ず唄いながら曲を弾きます。
三線は、唄と演奏が必ずセットでなければいけないんです。
私も、石垣島に旅行へ行った時は、いつもお世話になっている定宿で、暇があれば三線の練習をしていました。
その時に、三線だけ一生懸命弾いて練習をしていたので、その定宿のおじぃから、“三線は、唄といっしょに弾くものだから、唄もがんばってね。”と言われたことがあります。
それでも、この石垣島の定宿で知り合った博多在住の三線の大先生は、“ちょっと邪道な遊びなんだけど”と言って、三線で津軽じょんがら節を弾いて聴かせてくれました。
琉球音階と真逆に感じられる津軽三味線の曲を、三線で再現できるとはびっくりでした。
やはり、一流の先生は違いますね。
この大先生は、若い頃、津軽三味線の本場津軽で津軽三味線の修業をされたご経験があるとのことで、どおりで素晴らしいはずです。
このような素晴らしい三線は、南の島の暮らしに普通にある家族のような存在です。
三線の話を始めると、話が終わらなくなるので、最後に、三線の胴の皮が破れない、現地の方からこっそり教わった簡単なメンテナンス方法を控えめにお伝えしたいと思います。
通常、三線の皮の材質は、ニシキヘビの皮1枚を張るものが古来からの伝統的な三線ですが、三線が日本中に広まるにつれて、従来の本皮一枚張りの他に、強化張りと言われるニシキヘビの皮の下に布などをもう一枚張るものや、合成皮と呼ばれる皮に似せた化学繊維を使うものが出てきました。
理由は、今回のように破れないためです。
強化張りや、合成皮は、基本的に温湿度の影響で皮が破れることはないです。
そのメリットと引き換えに、本革一枚張りのものと比較すると音質は落ちます。
音が少しこもっているというような感じに聞こえます。
ですから、初心者の方が練習用に、これらの材質の三線をお使いになられているぶんには、皮の破れは気にしなくて良いと思います。
それでは、本革一枚張りで破れないようにするにはどのようにするのかと言いますと、大きな声では言えませんが、練習が終わるたびに、おでこやほおを三線の胴にスリスリするんです。
女性の方には、お奨めしませんが、そうすることによって顔の油分がほどよく皮になじみます。
油の質も正真正銘の天然由来なので、それも良くなじむ理由の一つだとか。(笑)
おかげで、私の三線は、購入して10年以上になりますが、未だ1回も破れたことはありません。
現地では、それほど三線を家族のように思っているということなんでしょうか。
ちなみに妻は、女性なのでこの方法はやっていません。
張替は8年前に購入して、今回2回目です。
まぁ、スリスリしなくても1カ月に1回程度、メンテナンス用の専用油をまめに塗っておけば大丈夫だと思います。
お店の名前は、「アッチャメ~小」さんです。
このお店は、八重山で知り合った博多在住の三線の大先生の紹介でお世話になっています。
このお店では、今では貴重な材質となった八重山黒檀で作ったウマ(弦を浮かせるのに必要な小さなパーツ)とか八重山黒檀から作ったカラクイ(ギターのペグにあたる部分)などユニークなものが売られてます。
もちろん、このカラクイとウマ買いました!
お店の場所は、那覇市の壺屋で開業されていましたが、4年前に豊見城市上田に移られました。
移転に伴い、お店の名前も、『壺屋三線店アッチャメ~小』から『吉川三線店』に変わりました。
店長の吉川さんは、とても気さくで親身になって対応して下さる方で、琉球三線製作家としてご自身で三線を作っておられます。
また、自作の沖縄民謡の受賞歴を持つ琉球民謡の先生でもあります。
もし、三線を始められるなら、三線だけを売っている三線店より、三線のすべてを知り尽くした方のお店を知っておくことは、きっと沖縄音楽を何倍も楽しめることと思います。
【アッチャメ~小】
住所 〒901-0243 沖縄県豊見城市上田570-2
電話 098-851-9934 (携帯070-5413-4134)
営業時間 10:00 ~ 19:00
定休日 日曜日
三線の修理をお願いしてお店を後にし、美しい首里城のライトアップを横に見ながら那覇市内のホテルに向かいました。
初めての首里城
出典:首里城公園パンフレット
(財)海洋博覧会記念公園管理財団 首里城公園管理センター 広報課 掲載許可済
一夜明けて、初めての首里城へ向かいます。
首里城は十四世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城。
沖縄戦で焼失したが、1992年11月3日に復元された。
出典:首里城公園パンフレット
14世紀末は、琉球の歴史では三山時代と呼ばれている時代です。
当時の琉球には、按司(あじ)と呼ばれる首長が非常に多く存在していました。
日本本土では、室町幕府の第3代将軍足利義満が明と交易し、華やかな金閣寺が建てられていた時代です。
その按司の中でも極めて力を持った有力按司が北部、中部、南部に現れ、それぞれ山北王(さんほくおう)、中山王(ちゅうざんおう)、山南王(さんなんおう)と称しました。
首里城は、この中の中山王である察度(さっと)の王代に創建したとの言い伝えが残っています。
参考文献:上里隆史著、『<琉球の歴史>ビジュアル読本 誰も見たことのない琉球』、(有)ボーダーインク、p10
しかし、現在の首里城の規模に近くなったのは、この三つの王を倒し、15世紀前半に琉球統一を成した思紹(ししょう)の次の王である尚巴志(しょうはし)の王代に整備されたものらしいとされています。
参考文献:高良倉吉著、『琉球王国』、岩波新書、p50
首里城は、小高い山の上にあるので遠くからでもよく見えます。
守礼の門
指定の駐車場に車を置いて、沖縄関連のパンフレットなどにはよく掲載されている守礼の門から首里城に入ります。
守礼の門正面に掛けられている「守礼之邦」の意味は、
「琉球は礼節を重んじる国である」
引用元:首里城公園ガイドブック
ということを表しています。
園比屋武御嶽(そのひゃんうたきせきもん)
守礼の門を抜けるとすぐ左側にユネスコの世界遺産の碑と一緒に園比屋武御嶽があります。
琉球王が城から出かける際には、この御嶽の石門前で道中の安全を祈願したそうです。
歓会門(かんかいもん)
首里城へ入る最初の門で歓会門と言います。
別名「あまえ御門(うじょう)」と呼ばれています。
首里城の有料チケットの販売所で聞いた話では、「あまえ」は、琉球古語で「喜ばしいこと」とか「喜び」と言う意味だそうで、喜んで来城者を迎えるという意味らしいです。
門をくぐって城壁の下に狛犬のようなシーサーらしきものが2つありました。
しばらく進むと、いよいよ首里城の正殿の入り口が見えてきました。
横を見上げると、すごい石垣です。
これだけ、長くてまっすぐな石垣は見たことがありません。
この石垣の積み方は、「布積み」という積み方だそうです。
また、石垣の上端角が天を仰ぐように積まれています。
この部分は、「角がしら」と呼ばれ、首里城石垣のユニークな部分です。
参考文献:伊佐 真幸・新垣 英隆 論文 別紙2『首里城石積みからの探求について』
龍樋(りゅうひ)
この龍の口からの水は、王宮の飲料水や冊封使の宿泊施設である天使館に使われていました。
参考出典:首里城公園ガイドブック
漏刻門
当時は、水時計が門の上の櫓にあったことからこの名前が付けられました。
また、駕籠の使用を許された高官でも国王に敬意を表わすため、この場所で駕籠を降りたことから、この門の別名として「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれています。
参考出典:首里城公園ガイドブック
漏刻門をぬけた所で、門の裏側の写真も撮りました。
漏刻門を超えた所の石垣の上からは、今通ってきた歓会門の向こうに、那覇市の街並みと海が見渡せます。
写真の右下の門は、当時、主に女性が使用していたとされる北側通用門で、久慶門(きゅうけいもん)と呼ばれています。
日影台(にちえいだい)
また、石垣の上は小さな広場になっていて、石垣寄りに日影台と呼ばれる日時計が置かれています。
この日影台は、漏刻門の水時計を補完するために設置されたそうです。
日時計は、設置をしっぱなしでは、1年のうち1/3は10分以上の誤差が出ます。
これは、地球の公転が楕円のために起こるもので、この誤差を修正するには定期的に日時計の針をずらして調整する必要があります。
公園の説明によると琉球王朝では、そのことを踏まえて1年の二十四節気ごとに日影台の針の位置を調整していたそうです。
現在でも、1年のうち4回、春分の日、夏至の日、秋分の日、冬至の日に日影台の針の位置を調整しているとのことです。
この隣に、供屋(ともや)と呼ばれている小さな建物の中に、正殿内に掛けられていた釣鐘があります。
この釣鐘は、レプリカで本物は、沖縄県立博物館に展示されています。
この鐘は、歴史資料では1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、広福門正面の供屋に設置された。
引用文献:財団法人 海洋博記念公園管理財団広報誌『南ぬ風』Vol.10 2009.1~3 冬号
この鐘には、当時の世界の中の琉球王国としての意識が見られる銘文が刻まれています。
その銘文の趣旨は、
「琉球国は、南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」
引用文献:財団法人 海洋博記念公園管理財団広報誌『南ぬ風』Vol.10 2009.1~3 冬号
という内容です。
この鐘は、使われ方もわかっていないのですが、この銘文からも当時の琉球王朝の様子がうかがえますね。
しばし鐘を鑑賞した後、この供屋の前に正殿に通じる広福門
を通ります。
ここからは、有料拝観エリアになりますので広福門にあるチケット売り場で拝観チケットを購入します。
広福門(こうふくもん)
広福門は、門としての役割だけではなく、門の中に「寺社座(じしゃざ)」と呼ばれる神社仏閣を管理する役所と「 大与座(おおくみざ)」と呼ばれる士族の財産問題を調停する役所がありました。
参考出典:首里城ガイドブック
財産でのもめごとは、いつの世でも変わずあったのですね。
広福門をくぐると、正面に琉球開闢七御嶽の一つ「朱里森御嶽(すいむいうたき)」があります。
この御嶽も強力なパワースポットといわれています。
この御嶽の真横に正殿に入る奉神門があります。
奉神門(ほうしんもん)
この奉神門も広福門と同じで、門としての役割以外に門に向かって左側に薬草、茶、たばこ等を管理した「納殿(なでん)」があり、門に向かって右側に場内での儀式等を執り行う「君誇(きみほこり)」がありました。
参考出典:首里城ガイドブック
今の日本で言う、専売公社と宮内庁があった門ですね。
この門をぬけると、御庭(うなー)と呼ばれる広い広場の向こうに琉球王がおられた正殿が見えます。
当時、この広場で明からの冊封使(さくほうし)を迎え、式典を行ったりしたようです。
先の中山王察度(さっと)の時代に中国の明は元を滅ぼし、周辺諸国を属国とすべく、朝貢外交を迫まりました。
琉球にも、その要求が送られました。
簡単に言うと、明は、周辺諸国に対して、明の皇帝の臣下となり、献上品を定期的に送ることにより、明が定めた爵位を属国の統治者に与えるというものでした。
冊封使は、この爵位を属国に与える旨が書かれている冊書と言われる書類を運ぶ使者のことをいいます。
参考文献:『琉球王国』 岩波新書
正殿
正殿の前の広場が、シマシマになっているのは単なるデザイン的なものではありません。
行事の時など、位の順に場所が決められていました。
その位置を、このシマシマでわかるようにしていたのです。
そのシマシマ広場を進んでいくと、見事な装飾が施された正殿を見ることができます。
それでは、今となっては現物をみることができなくなった正殿のすばらしい装飾をご覧くださいね。
この部分は、「唐破風妻飾(からはふうつまかざり)」と呼ばれています。
参考出典:首里城ガイドブック
正殿前の入り口両脇に建てられている琉球石灰岩で作られた龍の柱は、「正殿大龍柱(せいでんだいりゅうちゅう)」と呼ばれ、向かって左側が「吽形(うんぎょう)」、右側が「阿形(あぎょう)」です。
高さは、4mほどあります。
正殿内部
正殿内部は、すべてがピカピカ、キンキラキンです。
御差床(うさすか)」と呼ばれる玉座の間の後ろには、『中山世土(ちゅうざんせいど)』の書が掛けられています。
この書は、清の第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)の筆で、
「琉球は、中山が代々治める土地である」
という意味だそうです。
引用文献:上里隆史著、『<琉球の歴史>ビジュアル読本 誰も見たことのない琉球』、(有)ボーダーインク、p94
この玉座に向かって右側にある『輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)』の書は、清の第5代皇帝の雍正帝(ようせいてい)の筆で、
「琉球には、めでたい印が集まっている」
という意味だそうです。
引用文献:上里隆史著、『<琉球の歴史>ビジュアル読本 誰も見たことのない琉球』、(有)ボーダーインク、p94
この玉座に向かって左側にある『永祚瀛壖(えいそえいぜん)』の書は、清の第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)の筆で、
「海の向こうの琉球を永く幸いに治めよ」
という意味だそうです。
引用文献:上里隆史著、『<琉球の歴史>ビジュアル読本 誰も見たことのない琉球』、(有)ボーダーインク、p94
正殿の見学を終了し、首里城公園の出口になっている久慶門を通り首里城見学が終了です。
まとめ
今回の番外編で南の島旅行記が完となりました。
首里城は、本当にすばらしい城だったので、本当に残念です。
それでも、復旧の動きが始まっていますので、またいつの日か、あの荘厳で優美な姿を見ることができるのを楽しみにしています。