50代で子育て専業主夫になった私の日記

50代で初めての長男が誕生し、何もかもが180度変わりました。そんな初めての世界に感じたことを気分転換も兼ねて日々綴っているブログです。

世間で大絶賛!“家庭料理はおいしくなくてもいい”?の「一汁一菜本」を読んて感じた世間の誤解

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 毎日、相変わらず自分の時間がなかなか取れないボイジャーです。

 

この緊急事態宣言による外出自粛で、新聞を見てもニュースを見ても、皆さん自粛されている方がほとんどですばらしいですね。

 

でもその反面、家事や育児をされている世のお母さん方は、相当大変だと思います。

 

我が家でも、普段の生活なら平日の日中は、妻は仕事で子どもは幼稚園なので、家のことをしても3、4時間くらいは、時間が作れていたのですが、この2ヶ月ぐらいは自分の睡眠時間を削って、やっと時間を捻出できるかどうかという状況です。

 

このような毎日の中で、何が一番大変かと言うと、やっぱり三度の食事ですよね。

 

もう朝ごはんを食べながら、お昼ご飯何にしようか?と考えてます。

 

ご飯は、栄養が偏らないようにとか、魚の次は肉にしようとか、家族のからだの面を考えた上で、メニューが続けてかぶらないようにとか、美味しくなる工夫とかいろいろ考えるわけですよ。

 

 1日に3回このような状況が延々続くと、本当に目がグルグル状態です。(笑)

 

救世主現る!“家庭料理はおいしくなくてもいい”

 そのような中、2017年に発刊され話題になった土井善晴先生の「一汁一菜でよいという提案」という本が、この新型コロナ禍で外出自粛が続く今、再燃しています。

 

私もいつものようにアマゾンでサクッとその本を購入しようと思ったら、在庫切れ入荷時は未定と表示されていました。

 

他のオンライン書店を見ても、個人で中古品を割高で販売している所以外は、見当たりません。

 

府立図書館であれば、蔵書があるのですが、この新型コロナ禍で閉鎖中。

 

やっぱり、AmazonのカスタマーレビューやSNSで“この本を読んで気が楽になりました!”とか“毎日の食事の献立を気にしなくてもよくなり本当によかったです!”など主婦を中心に大絶賛というのは噂だけではないようです。

 

増々この本が気になって仕方がないので、リアル店舗で売っている所を見つけ、妻の仕事関係の本も買いに行かなくてはいけないと言うことがあったので、さっと買いに行ってきました。

 

イオンモールの中に、その本屋さんはあるのですが、本屋さん以外は、9割方自主休業中で大きな通路には、警察の事件現場でよく見かけるKEEP OUTテープに似たテープで立ち入り禁止テープが張り巡らされていました。

 

テープが張り巡らされた昼間でも薄暗いイオンモールの通路の先に、その本屋さんの明かりだけが夜中の街のコンビニの明かりのように灯っていました。

 

このような異様な光景を見るのは、初めてですね。

 

実際に「一汁一菜でよいという提案」を読んでみて

本を購入した夜、子どもを寝かしつけた後に、疲れて眠い目をこすりながら、早速、この本を読んでみました。

 

速読とか、テクニカルな方法を持ち合わせていない私は、全力で何とか3時間で読み終えました。

 

読み終えて、別の日にもう2回ほど読み直して、多くの人がこの本を読んで、ちょっと誤解しているかなぁ?と思ったところがあったので今回記事にしてみようと思いました。

 

筆者は、この本の冒頭で、一汁一菜は、“日本人としての「生き方」”と言っています。

 

そして、一汁一菜を奨める理由として、

毎日三食、ずっと食べ続けたとしても、元気で健康でいられる伝統的な和食の型

引用元:「一汁一菜で良いという提案」p12、4行

 

ご飯と味噌汁のすごいところは、毎日食べても食べ飽きないこと

引用元:「一汁一菜で良いという提案」p12、11行

 

ご飯と具だくさんの味噌汁。これだけで毎日に必要な栄養は十分摂ることができます。

引用元:「一汁一菜で良いという提案」p49、1,2行

 

どんなに忙しくても作れる

 引用元:「一汁一菜で良いという提案」p12、1行

 

としています。

 

この最後の、“どんなに忙しくても作れる”という部分とこの本の中ほどにも書かれている“家庭料理はおいしくなくてもいい”の言葉が、今回の新型コロナ禍で自宅に巣篭り状態の家族の切り盛りをかれこれ2か月以上もやっている超忙しい主婦の心に強く響いたのだと思います。

 

子育ての立場から「一汁一菜」を考える。

この一汁一菜という食事の型は、現代人にとっては、確かに体に良いすばらしいメニューだと思います。

 

しかも、手間がかからないとなると、忙しい現代人には願ったり叶ったりですね。

 

最も、1日の適切な摂取カロリーや塩分にも気をつけるということは、必須だと思いますが、そこまでこの本には書かれていません。

 

しかしながら、こと子どもに食べさせるとなると少し話は変わるかなぁ?と感じました。

 

基本的に、子どもはいくら工夫しても苦手な食べ物、口に合わないものは食べません。

 

また、子どもは、好きなメニューでも続けて出すと食べてくれないことがほとんど。

 

お菓子やケーキは別ですが。(笑)

 

これは、私が以前、小学校現場で働いていた時に多くの児童の給食を見ての感想です。

 

妻も小学校に勤めて20年以上になりますが、同じ感想を持っています。

 

また、小学校や所によっては、幼稚園においても、子どものお昼は、学校給食をいただきます。

 

学校給食は、ご存知の通り、栄養面を綿密に計算され、尚且つ、子どもの食べやすさを試行錯誤しながら作られています。

 

たまに自治体によっては、“なんじゃこりゃ”と言うような給食メニューもあったりしますが。(笑;)

 

また、給食は、和洋中、揚げ物、カレー、シチュー、ハンバーグ等々と非常にバラエティに富み、毎日、子どもを飽きさせない工夫がされています。

 

そのような中で、たとえ味噌汁の具が毎回変わったとしても、子どもからすれば毎回味噌汁なわけで、自宅では一汁一菜で通すということは、やはり現実的にかなり難しいかなぁ?と思ったりします。

 

我が家の4歳の息子は、出汁が大好きなのですが、自宅で作った昆布と鰹からとった出汁から作る味噌汁は、食べてくれます。

 

さすがに一汁一菜とはいきませんが、ご飯+味噌汁+野菜+焼き物という型で食べています。

 

でも、味噌汁の具が変わっていたとしても、味噌汁も他のおかずも続けては食べてくれません。

 

続けて食べてくれるのは、炊き立てのご飯だけ。

 

また、時間が無い時は、無添加の鰹と昆布の「だしパック」を使って出汁を作って、同じ味噌で味噌汁を作るのですが、食べてくれません

 

やっぱり、出汁と言えども家庭でやるべきことをやらないでスルーしたものはNGと言うことでしょうか?

 

そうだとすれば、子どもは正直ですね。

 

 

それでも、味噌汁を試行錯誤し、朝食に週4回は出すようにしていますが、食べてくれる確率は25%くらいです。

 

このようなことから毎回の一汁一菜は、子どもには正直、なかなか難しいかも。

 

でも4回に1回は食べてくれるので、それはそれでいいんじゃないかなぁと思っています。

 

まぁ、今までの経験から、子どもが元気な状態であれば、子どもの食欲は、睡眠時間と1日の運動量に比例すると思っています。

 

要するに、十分に寝て、十分に外で親や同じ年の子どもと遊ばし、より多くの笑い声の中でお腹がペコペコになる状態になっているかどうか?

 

これが、食べてくれるかどうかの大きなキーポイントですね。

 

このキーポイントが毎日クリアできていれば、子どもでも毎回の一汁一菜は、可能なのかもしれません。

飽食の時代に生活する大人の立場から一汁一菜を考える。

まず最初に、毎日の食事が“家庭料理はおいしくなくてもいい”と書かれていることについて、の解釈について多くの人が誤解しているように感じます。

 

著者は、食事には、「ハレ」の料理と「」の料理があると言っています。

☆「ハレ」と「ケ」
この本の内容は、「ハレ」と「ケ」と言う昔から見られる日本の風俗が、深く関わっていると思うので、この考え方について日本の文化人類学の重鎮である、お茶の水女子大学名誉教授の波平恵美子先生の論文をお借りして、ちょっとだけ説明したいと思います。

「ハレ」とは、祭りや神事 、公的共同行為、葬式・年忌供養のような非日常の行為を指し、その時に着る服から使うもの、食事に至るまで「ハレ」の日限定バージョンでした。
 

これに対し、「ケ」とは、「ハレ」の日以外の日常的な行為を指し、「ハレ」の日に着る服や、使うもの、食べるものなどは、決して用いることはしませんでした。

このように、日本人は昔から「ハレ」と「ケ」という考え方で生活を律していました。


このような考え方は、今の都会ではすっかり忘れ去られているように感じますが、昭和30年代末では、農村や山村、漁村で見られるところがありました。

 

どのような雰囲気の社会であったか例を挙げて見て見ますと、

祭 り 日で もな い の に ,若 い 女 性で あっ て も,化粧す る こ と,農作業に 向か な い よ うな 衣服を身 に 着 け る こ と,金 を支 払 っ て 得 る よ うな食 物 (か ま ぼこ ,菓 子 な ど) を毎 日買 うこ とは陰で 非 難 され て い た。


酒 は祭 りや 家 内 の 祝 い ごとな どハ レ の 場合 の 飲 み もの であ る とい う認 識 は 残 っ て い て ,「あ の 家 の 主 人 は毎 日 晩酌 を して い る」 とい う表 現 は,そ の 入 の 悪 口 の 表現 と して 使わ れ て い た 。

 

「毎 日 晩酌を す る よ うな 人 だ か ら」 とい うの は,「収入 以上 の 生 活 を して 贅 沢 だ」とい う意 味 より も 「け じめ の な い 入 」,「場合 に 応 じた 行動の と れ な い人 」 とい う意 味 で あ り,村 落生 活 の 中で は最 も行動 規 範か らは ずれて い る と い うこ とで あっ た 。

というものでした。

現在でも、「ハレ」の代表的なものに神社のお祭りが終わった時に、神様にお供えしたものの御下がりを神職者や参列者で頂く「直会(なおらい)」という儀式があります。

参考文献・引用元 日本音響学会誌45巻2号(1989)「ハレ」と「ケ」:日本人における日常性と非日常性の演出 九州芸術工科大学 波平恵美子 

 

 

個人的には、著者が言う、“食事は自分で作る”を実行した場合、やはり結果的に手間がかかる料理になるのではないか?初め疑問がよぎりました。

 

しかし、2回、3回と読み返していくうちに、この本でのポイントは、栄養のある料理が早く作れるとか、家庭料理はおいしくなくていいというようなことではなく、ハレ」と「の考え方をもとにした普段の生活姿勢にあるのではないかと感じました。

 

この本の、「贅と慎ましさのバランス」という章で著者は、“多くの人がハレの価値観をケの食卓に持ち込み“と書いています。

 

昭和の40年代くらいの暮らしでは、例えば、すきやきと言えば誕生日か何か特別な日のごちそうでした。

 

いわゆる「ハレ」の食事です。

 

しかし、経済成長し飽食の今日、好きな時に好きなごちそうをお腹いっぱい食べることができるようになりました。

 

「ハレ」の食事は、元来特別なもので、感謝と畏敬の念を抱きながら頂くもの。

 

その「ハレ」の食事が、美味しいと言うだけでどんどん「ケ」の領域に取り込まれるようになりました。

 

その結果、「ハレ」も「ケ」も無くなってしまいました。

 

そこには、お金さえ出せば、いつでも好きな美味しいものがいつでも食べることができる世界だけが存在していました。

 

多くの人が、そのような食事を採って、“美味しい!”とは感じても、その食材が食卓に並ぶまでの過程や生産者の苦労や自然の恵みに対する感謝まで推し量りながら食事と対峙する人は多くないのでは?と危惧する世の中。

 

その危機感を著者は、この本で多くの人に気づいてもらいたかったのではないでしょうか?

 

これは、私の勝手な推測ですが、この本を3度読んで私は、著者は”家庭料理はおいしくなくてもいい”の裏側で”家庭料理はごちそうでなくてよいではなかったのかと思います。

 

だからこそ、現代の日本で「ケ」の生活で必須のご飯の炊き方も、この本でわざわざレクチャー されたのではないかと思います。

まとめ

この本を読んで筆者は、きっと日本人が何百年にもわたって食べ続けている米、味噌汁、漬物を通して、食材、さらには自然に対し畏敬の念と感謝の心を持つことによって、飽食の資本主義社会に規律ある生活が芽生え、本来の人間とは?家族とは?と言うことを私たちに問いかけたかったのではないでしょうか?

 

最後に、これは私のただの主観ですが、人間という生物は、社会的生物です。

 

今、自分の身の回りを見渡してみても、決して自分一人だけでは、お風呂に入って清潔に過ごすことも、着るものも、寝るための布団も、雨風をしのぐ家も・・・すべて何一つ自分一人で作ったものではありません。

 

必ず、相手の顔も知らない向う側の人々のがんばりや苦労があって、今、生かされている自分があるのだと思います。

 

だからこそ、感謝はするものではなく、湧き出てくるものなんだと思います。

 

このコロナ禍の余裕が少ない毎日に、このような思いを再確認できた素晴らしいこの本にありがとうと言いたい。