50代で子育て専業主夫になった私の日記

50代で初めての長男が誕生し、何もかもが180度変わりました。そんな初めての世界に感じたことを気分転換も兼ねて日々綴っているブログです。

50年の積り固まった塵の果て

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このブログにお越しくださった皆様。

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ありがとうございます。

 

さて、今回のテーマの中の「塵」という文字を見て、家事・育児に関することがメインのブログなので、お掃除ネタと思われるかもかも?ですが・・・。

 

塵は塵でも心の中の塵のお話です。

 

昨日の朝5時半、実の父が85年の生涯を終えました。

 

まぁ、私は50代なので世間的には、珍しくも何もないと思います。

 

でも、私と父の関係は、幼い時から現在まで、結構きつかったんですね。

 

ネットを見ると、私と同じような境遇で悩んでおられる書き込みも散見されるので、書いてみようと思いました。

 

どこか怖くて、何も言えなかった怖い存在

私の父は、普段は、言葉少なく、仕事も一生懸命頑張ってくれた良い父でした。

 

忙しい仕事の合間でも、年に数回でしたが、夏にはカブトムシやホタルを取りにつれて行ってもらったり、キャッチボールをしたり、魚釣りを教えておもらったりと良い思い出も少なからずあります。

 

傍から見れば、こんな、良い子煩悩な父親なんですが、お酒が入ると雲行きががらっと変わるんです。

 

仕事から帰ってきて、必ず晩酌をするのですが、晩酌が始まって10分も経つと、とにかく機嫌が悪くなるんです。

 

とにかく、怒りまくります。

 

最悪なのは、私が親の小言を聞かなかった時の話がこのタイミングで話題に出ると、父の怒りモードがMAXになります。

 

このような時、私はいつも鬼のような形相の父を前に、恐怖しかなく、泣きながらじっと黙っていました。

 

父は、私が何も言わないのがさらに腹立たしくなるようで、私に手を出したり、私をはだしで夜の屋外に追い出したりしました。

 

私の母親も、度を超す父の行動に意見を述べようものなら、手が出ることも。。。

 

この時代には、まだDVと言う言葉はなかったんですが、今思うと、まさにパワハラ、DVの日々でした。

 

いじめられっ子の中学時代

親の意向で、中学生に上がるタイミングで引っ越したので、知っている友人もない中の中学生活の3年間は、地獄の日々でした。

 

入学して3カ月ほど経ったころから、クラスでいじめをするグループから標的にされ続けました。

 

いじめは、私の後ろから後頭部を手で叩いて走り去ったりすることは、常時で、お昼ご飯の時に、大きなやかんに入っているお茶を、みんなの前で頭の上からじゃーっとかけられたり、カッターシャツのボタンを引きちぎられたりと散々でした。

 

そんな時、私の父は、子どもの喧嘩には親が口出しするのは好ましくないとかで、特に何をしてくれることもなく、晩酌時には、やっぱり機嫌が悪くなる環境は続きました。

 

そんな時、私が思ったのは、高校はいじめグループが入ってこれないようなレベルの所へ入学することでした。

 

一念発起して、日々のいじめに耐えながら、当時、地元では一番の公立高校の理系に入ることができ、思惑通り、いじめグループと決別することができました。

 

平和な高校時代

高校に入り、さすがに義務教育は終わったということで、親からの小言は、アドバイスに変わりましたが、大学の話になると、また、父の雲行きが怪しくなりました。

 

父が、進学を認めるのは、国公立のみ。

 

しかも、自宅から通える学校に限られました。

 

理由は、下宿をさせて大学にやるお金はないとのことで、仕方がないと当時は思っていたのですが、後日、母から、お金はあったが、父が好きな車の購入に充てたと聞きました。

 

当時の私の学力は、地方の国立大学であれば合格圏内だったのですが、さすがに旧帝大系の大学は圏外で受験しませんでした。

 

結局、家を早く出たかったということもあり、新聞奨学生制度を頼りに私立大学の理系を受けるも失敗し、海上保安大学校を受験し、学科は受かったものの、視力がだいぶ良くなかったためにこれまた没。

 

まぁ、私立の大学は、受験科目に学校で習っていなかった選択科目が入っていたので、受験するまでもなく結果は見えていたのですが・・・。

 

このような受験敗退の毎に、父からかけられた言葉は、“おまえはいったい何をやってるんだ!”の一言しかありませんでした。

 

そして、高校2年の時から新聞配達をしていたお金を貯めて、高校を卒業すると同時にやっと家を出ることが叶いました。

 

暗礁に乗り上げた大学時代

何とか働きながら大学へ通う道を模索し、通信制の大学に入ることにしました。

 

教員を目指そうと考え教育学科へ入り、通学生とは全く異なる大学生活でした。

 

今までに書いたことのないような大量のレポートを何枚もひたすら書いて、それが認められて初めて試験を受けることができ、その試験にパスしてやっと単位がもらえるという作業は、大変でした。

 

そんな日々も4回生になったころ、男女問題での夫婦間での口論が絶えなかった中での父のDV、両親の離婚に伴い、実家に戻っていた妹の自ら命を終わらせようとした出来事、母の持病の悪化と最悪の状況になり、一家を立て直すため大学を辞め、実家に戻りました

 

仕事も、それまでやっていたアルバイトを辞め、派遣会社で大手電機メーカーに2年働き、その間、現場に役に立つコンピューターデータベースシステムを仕事とは別に無償で作り上げた成果が認められ、正式試験をパスした上で正社員として働くことになりました。

 

嵐の時代の後

それから時は流れ20年余り、好き勝手な父とは絶縁状態でした。

 

私も30代前半で、私の家族のこれまでの経緯を説明した上で、父とは生涯、会うことはない旨を説明した上で、結婚ができ、5年前に元気な息子も誕生してやっと平和な日々が訪れました。

 

しかし、1年ほど前に遠方に住んでいる父の弟にあたるおじから、電話がかかってきました。

 

内容は、父と一緒だった内縁状態の女性は、既に他界しているので、父親に一度会って話をしてほしいとのこと。

 

もちろん、妻との結婚時の義理の父との約束も有るので、断りましたが、あまりにも度々電話がかかってくるので、義理の父に話をしました。

 

義理の父は、快く承諾してくれたので20年ぶりに会ってみたところ、最初はとても喜んでいましたが、2回目に会いに行ったときは、やはり昔のままでした。

 

そして、その後、父に胃がんが見つかり、胃を全摘しました。

 

術後は、転移もなく良好でしたが、相変わらずタバコとお酒の毎日で、とうとう食事が喉を通らなくなってきました。

 

そのような状況で、孫の顔を見せるかどうかを妻と話し合い私の家族3人で父の所に2回ほど出向きました。

 

2回目に出向いたその日の夜に父から、めずらしく電話がかかってきて、“今日はありがとう。おかげで孫の顔を見れて今晩は楽しい夢が見れる”と言っていました。

 

私は、“また、息子を連れて行くから”と言って寝床からの電話のようだったので電話を切りました。

 

これが私と父との最後の会話になりました。

 

もしもの時の喪主は、父が弟の叔父に以前より依頼して叔父が対応することになっていたのですが、叔父が難病発症のため今年の8月末に急遽、有無を言わさず親の最後は子どもがするものの一点張りで、私に振られました。

 

司法書士さんに相談をしたところ、事情が事情なので、静観しても問題はないとのことでしたが、2カ月ほど悩みました。

 

父が他界して今思うこと

結局、私が喪主をすることにしたのですが、その決め手となったのは三つあります。

 

一つは、数少ない幼い時の父との良い記憶です。

 

若い時は、早く家を出ることばかりを考えて、いやな毎日から抜け出すことばかり考え、それが叶ってすっきりしたはずなのですが、毎日どこか父を引きずっていたところがあったのかもしれません。

 

また、父がお世話になった主治医の先生や、近所の方々、ケアマネージャーの方がどなたも良い方ばかりで、このような方にご迷惑にならないような父の最後にしなければいけないと感じました。

 

そして、私にも息子ができ、男親の気持ちというものが多少なりともわかるようになったので、その分が良い記憶に上乗せされました。

 

終生、怖い存在だった父

 

人の言うことを聞かずに、胃がなくなってもタバコを吸い、お酒を飲み続けた父

 

最後の最後になって、別れ際に一言、“すいません”とか細い声で言った父

 

にこやかにおだやかな表情で最後を迎えた父

 

もっともっといろんな話をしたかった父

 

もっと孫と一緒に遊んでほしかった父

 

そして、父が亡くなったと同時に、私の心に風が吹き、今まで積もりに積もった塵が父の昇天と共に舞い上がっていった気がします。

 

きっと私の心の中にも、我があり父の本音に耳をふさいでいた所もあったのかもしれません。

 

人の心は、理屈どおりにいかないことを深く学んだ50年間でした。

 

今日は、これから、荼毘に出向きます。

 

この世に生をくれた父に心から感謝しながら。